2011年5月3日火曜日

三陸海岸の被災のようす(2)

図4.防潮堤(図1②の市街地側)
 図4の防潮堤はTP.10.45mに設計されているようですが,湾内に入った津波の高さは12mに達したと考えられ,さらに津波の特性から防潮堤の地点では15mを優に超えたのではないでしょうか。
 沖合を津波として伝搬してきたエネルギーが,この地点で一気に高波としてのエネルギーに変換され,濁流として集落を襲ったようすが思い浮かばれます。
 報道である程度の被害状況は知っていましたが,この地点は2重堤の内側ということもあり,実際にその様子を確認しても信じられない思いがしました。やはり,同じ波高でも高波と津波とではまるで違うものなのだということが実感としてわかりました。
 それにつれ,津波防災の世界的先進地であった田老地区でさえこのような被害が出てしまった事実が重く感じられました。

図5.破堤した防潮堤(図1⑦)

 図5は1重目の防潮堤(TP10.0m)です。国際航業のCGシミュレーションによりますと,この地点へは対岸の岬からの反射波が押し寄せて多重波となったようです。あくまでも結果論ですが,設計基準以上の津波は想定されておらず崩壊してしまったようです。たとえ設計基準以上の津波でも崩壊だけは避けられなかったかと残念に思いました。最高波は超えても残りの波は抑えられ被害は軽減できた可能性があると思います。引き波の被害も軽減できたのではないでしょうか。(ただし,これはあくまでも観察の印象だけです。)
 
  被災状況のすべてはお伝えしきれません。とりあえず図1の④から撮影した田老中心部の全景をアップします。
図6.田老全景(南側)

 撮影地点は,集落から比高12m程度の高さにある出羽神社が建立されている場所です。他の被災地でも同様でしたが,神社という神社すべてが今回の津波被害からは免れていました。それもそのほとんどが,あと数メートルで,という絶妙な地点に建てられていました。


図7.田老の全景(中央部)

 図6,7,8で確認できるエリアは,野原という字名から推測しますと,元々は田老の中心部ではなく,湿地帯もしくは田圃が広がる地域だったのではないでしょうか。その後,漁業が活発になるにつれ時代とともに集落が形成されたと推測します。さて,それがいつのことなのかは不勉強ですが,これまでの三陸地方の津波被害の頻度を考えますと,歴史は繰り返されてきたと思われます。そして今後も,田老の再建のためにはこの区域を捨てるわけにはいきません。
 ただし,復興に際しては住民の方々の意向が最優先されるべきですが,立地上の漁業と集落の両立は困難な問題で,職住の若干の分離は避けられないかもしれません。
図8.田老の全景(北部)


 訪れた日は被災から42日たっていましたので大きな瓦礫(という表現は適切ではないと思いますが他の表現が思いつきません)はかなり整理されていましたが,それでも自動車や乗り上げた船舶などはまだまだ残されており,さらに,一見被災の程度が低いと思われる建物も実は大きな被害を受けており,「解体OK」と書かれた建物が多く残っていました。

 遠望ではわかりませんが,瓦礫の1つ1つに被災の皆さんの思い出が詰まっているのを間近に見ますと,調査のためとはいえ,ただ観察して歩いているだけの自分が無力に感じられました。こうしてアップしているのも実はその反動ともいえ,できるだけ多くの人たちがそろそろ現地を訪れ何らかの活動をしてもらえないかと期待するからです。
 まだまだ自力完結型の訪問しかできませんが,地理学を学ぶ私にとって,目をそらすことのできない空間がそこにありました。   River

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