2011年7月12日火曜日

「大阪難波における南海地震の津波被害について」へのコメント

何回トライしても標記の投稿記事へのコメントができませんでしたので,別稿で投稿します。

 確かに,喉元を過ぎれば熱さもなんとかというように,災害の伝承は忘れられがちですが,同じ間違いを繰り返しながらも,伝わることもあるようです。河田(2010)によりますと,安政南海地震の教訓が宝永地震のときに役立った事例があったそうですし,Sagaraさんの文中で紹介された記念碑も毎年地蔵盆に合わせて墨入れが行われているようです。私たちにできることは限られますが,こと地震や津波に限らず,土地に刻まれた記憶を地誌にまとめて後世に伝えることはできます。田辺市でも何を伝えたいのか,伝えるべきなのかに注視して頑張ろうと思います。

 津波発生時の地下河川の問題は同感です。地下河川は隔壁で隔てることができるようになっているはずですが,これまでの河川洪水(たとえば2009年?の金沢・手取川)のように運営上の拙さから被害が拡大してしまう可能性は払拭できません。本来出水するはずのない地点から想定外?の出水が発生しては防御のしようもありません。

 また,大阪の地下河川は本当に河川なのかという疑問も感じます。以前,南西諸島・宮古島の地下ダムを調査したとき,地下ダムの論文を検索していますと「大阪の地下ダム」というタイトルを見つけて驚いた記憶があります。要は,大阪の地下河川の本来の目的は,淀川や大和川の洪水時の遊水地づくりであるらしく,必ずしも河川とはいえない要素を含んでいるということです。このような地下河川が津波の時にどのような働きをするのか興味が湧くところです。

 あれやこれや,やりたいことは山なれど,落第生の修論提出まで後10日,我慢の一字でやり過ごします。  River

 河田惠昭,2010,『津波災害』岩波新書,191P,pp.46-47

2011年7月7日木曜日

大阪難波の南海地震(安政元年)における津波被害について


Sagara1020です。
大阪難波でフィールドワークをしてきたので報告します。

はじめに

 2011年3月11日、マグニチュード9.3、最大震度8の大規模な地震が発生し、それに伴う大津波が三陸海岸沿岸の町々を襲った。死者、行方不明者は約3万人と阪神淡路大震災を大きく上回っている。
 私は、震災後50日目に被災地域である宮城県北部の調査を3日間行った。実際に被災地の凄惨な現状を目の当たりにし、自然の恐ろしさを感じることとなった。地震やそれに伴う諸現象は今後日本からなくなることは、日本列島の形成史から考えてありえない。我々がときおり起こる猛烈な自然現象とうまく付き合っていくためには、過去の地震や津波などの被害を調べ現状できる範囲での対策が必要である。
 今回は、身近な地域である、大阪難波における安政元年の南海地震の津波被害を調査した。その結果から、大阪難波でとられている対策が十分であるかを検討したいと思う。


南海地震と安政元年の津波被害

 南海地震は、南海道地域で100年から150年の周期で発生する地震である。過去最近のものは、1946年、1854年(安政元年)、1707年(宝永4年)に発生しており、いずれも紀伊、四国沿岸各地に津波被害をもたらしている。なかでも、安政元年と宝永4年の両津波の被害は大きく1946年のものを上まわっている。今回は、安政元年の津波被害について報告する。
安政元年11月4日、安政東海地震(最大震度7、マグニュチュード8.4)が発生した。震源を静岡県沖とするこの地震は、大阪でも震度5の揺れがおきたとされている。その翌日(安政元年11月5日)、和歌山県沖で安政南海地震(最大震度6~7、 マグニュチュード8.4 )が発生した。この地震により発生した津波は、紀伊、四国沿岸、大阪湾岸などを中心に甚大な被害をもたらした。「大津浪末代噺種」によるとこの津波による大坂における死者は6000人余り(資料によってまちまちだが、多かったもので死者6000人余り)とされている。この被害原因は、大坂の町割と地震の特徴にある。火災が頻発する大坂での一番安全な避難場所は、掘割であった。大坂の町割は道が狭く避難しにくい。安政南海地震の際も船に家財道具をつめ掘割へと避難した。しかし、安政南海地震はプレート型の地震であるため大規模な津波を生じ、大坂の町を襲った。安政南海地震で被害が大規模にみられたのは、最も危険な地域となった掘割である。そこに避難した人々が多かったからである。また、津波が大坂に到達するまでに、1時間50分ほどあったことから、避難する人々の気が緩んだのも事実であろう。
 図1は、大坂難波周辺における津波被害を示した「大坂大津浪図」である。図2、3がそれを書き写し見やすくしたものである(長尾武 水都大坂を襲った津波より引用)。この図3の注意点は、北と南が逆さになっていることである。この図をみてわかることは、水入り(浸水)になっているのは道頓堀川沿いの南側現在の浪速区幸町付近と木津川河口付近である。

 

図1 大坂大津浪図( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )

図2 大坂大津浪図加筆版( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )

図3 大坂大津浪図加筆版( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )


大阪難波におけるフィールドワーク

大阪市浪速区大正橋のたもとに安政大津波を記念した石碑(図5)がある。この石碑は、地震の翌年である1855年に建てられたもので当時の記録が残されている。図6がその全文を現代文に訳したものである。この文には、1707年の地震の教訓がいかされていないこと、地震が起きたら火災に十分気をつけなければならないこと、地震被害を記録することの大切さが刻まれている。碑文にある破壊された橋や図2、3より津波の浸水区域を表現したかったが、河川改修や干拓により土地利用が大幅に過去と現代では異なるため断念した。 また、石碑のある周囲には記念碑を残していくためにタバコの吸殻などのゴミを捨てずに清潔にしてほしいという看板があり、古人の思いが現代までに息づいていることを実感した。
 実際は、ある地域にしぼりフィールドワークを行ったのだが批判の面が強く、地域住民にとってマイナスのイメージをあたえるため割愛する。 




図4 石碑の位置


図5 大坂大地震両川口記


 図6  大坂大地震両川口記の訳文


大阪難波における津波被害対策の現状

 大阪に津波が襲来した場合、地下鉄や地下街などの地下施設を除く人的被害は少ないと思う。その理由として、鉄筋コンクリートの3階建て(大阪市が予想する津波高は2.9mであるため)以上の建物がたくさんある。2011年に東北で発生した津波から考えても津波による鉄筋コンクリート建物の倒壊の危険は少ないと思われる。それに加え、
避難時間が1時間50分あれば避難も難しくない。しかし、地震は別のものとして考えるべきである。それは、地震が起きて建物が倒壊してしまっては避難場所を失うことになるからである。また、大阪で特に注目すべき問題は、地下鉄、地下街などの地下施設である。地震によって地下施設が破壊され死傷者が出た場合、1時間50分では避難できない。時間帯によっては、死傷者がでなくても避難が難しい。また、地下河川からの逆流なども指摘すべき問題である。こういった災害の時にはゆっくりとおちついて避難することが重要である。避難訓練、災害教育に力を入れた教育が必要とされている。
 大阪市の津波対策として河川における堤防の設置を行っている。木津川の堤防を例にあげて紹介する。OP+2.m(逆望平均満潮位)に予想される津波高2.mを加えた5mが木津川の堤防の高さである。津波に対して、ぎりぎりの高さに堤防がおかれている。これには大きな問題点が2つある。まず、河川合流部における相乗効果による津波高の上昇である。もう一つは、津波が堤防を破壊した場合である。2011年に東北でおきた津波では、堤防の破壊が目立った。南海地震で発生する津波も堤防を破壊し市街地に水が流入する確率が高い。その際には、0m地帯に被害が集中する。m地帯は、揺れやすく、液状化しやすく、浸水しやすいなど災害にはめっぽう弱いところである。また、地震によりこの0mはさらに拡大すると考えられるため、なんらかの対策が必要となる。
 以上のことより大阪市における災害対策が充分でないことが指摘できる。しかしながら、堤防の強化やかさ上げすることには限界がある。そのため、避難訓練や災害教育に力をいれたり、避難経路、避難場所の充実をするべきである。


まとめ

 安政元年11月5日に発生した安政の大津波により大坂は甚大な被害をうけた。この津波の記録を残した碑文や地図によりその被害状況が明かになった。こういった災害を知り、対策をねることで次の被害を軽減することができる。しかしながら、社会形態、生活スタイル、構造物などに当時の状況は、大きく変わっている。特に地下施設の充実があげられる。地下施設は、便利だが災害の時は一気に危険になるのである。また、津波を防ぐための堤防も津波予想高ぎりぎりの高さである。その上、地下河川の逆流、堤防の破壊、相乗効果による津波高の上昇など考慮しなくてはいけない問題が多い。これらの問題は、解決に時間や費用が莫大にかかる。地震や津波がいつおこってもおかしくない状況にあるのであれば、早急に行わなければいけないのは避難訓練を中心とした災害教育である。


参考文献

長尾武(2006)「水都大坂を襲った津波 石碑は次の南海地震を警告している」 タイヨウ社 169頁