2011年12月24日土曜日

調査地選考会

奈良大学地理学研究会は、一年を通して一つの市町村を調査しています。
その調査地は、毎年この時期に行われる調査地選考会にて決定します。
候補地として、以下の市町村が選出されました。

静岡県浜松市
広島県尾道市
兵庫県赤穂市
新潟県新潟市
富山県高岡市
兵庫県淡路市
滋賀県彦根市
滋賀県高島市


 写真1 プレゼンの様子

  写真2 プレゼンの様子


各市を推薦する部員によるプレゼン後、投票を行いました。
その結果、、、




広島県尾道市が来年調査地に決定しました!!
決定の瞬間をアップしておきます。

動画1 調査地決定の瞬間

来年度の春合宿にむけて事前学習に励みたいと思います。





2011年12月12日月曜日

スポーツフェスティバル_優勝!!

地理学研究会が所属している文化会では、年に2度スポーツフェスティバルが行われます。
今季の種目はバレーボールでした。
地理研からは2チーム出場し、トーナメント戦にのぞみました。

結果、優勝、準優勝しました。

日頃、巡検で鍛えた足腰が役に立ったのかはわかりませんが、、、、。
とにかく、頑張りました。
写真や動画をアップしておきます。


動画1 左側が地理研

 写真1 勝ってうかれる部員


 
写真2 試合後疲れて倒れる部員


写真3 勝利の余韻にひたる部員



来季も頑張ります!!

2011年11月17日木曜日

学園祭報告

11月2日~4日の期間、奈良大学では学園祭が行われました。
地理学研究会では、和歌山県田辺市の調査展示と模擬店を行いました。

 動画-1 展示の様子(初日)

 まず、入り口には立体視鏡を置き、田辺市の様々な地域を3Dで楽しめるようにしました。(動画では、まだありません)

今年の展示は、A0サイズのポスターを全員が使用したため、綺麗な仕上がりとなっています。入り口に近い方から概要班、海班、市街地班、山班、特別展示というようにポスターを配置しました。

教室に設置されている、大型モニターを使用し活動風景のスライドを流したり、Google Earthで田辺市をみられるようにと今年は、パソコンも2台使いました。

毎年作成している立体模型は、田辺市域をすべてを含んでいるため、前回よりも大型のものが完成しました。

アンケートの方も「良いや」、「大変良い」などの評価をたくさんいただきました。
なかには、「博物館みたいだった」などという大変名誉な意見もあり、部員みんなで喜びました。
また、反対にA0で見栄えはよいが手作り感があまりないというような厳しめの意見もいただきました。


残念ながら賞こそとれなかったものの、各人が満足のいく展示ができたと思います。

模擬店に関しては、好評でした。
以前このブログでもとり上げたようにおにぎり問題も解決し、無事に調理することができました。
おにぎりは、1つ80円で、サケ、ゴマ、ウメの3種類を販売しました。
あと、変り種としてみかんおにぎり(みかんジュースで炊いたおにぎり)を1つ20円で販売しました。
みかんおにぎりは、爆発的に売れすぐに完売となったようです。3日ともみかんおにぎりは人気商品となりましたが、おそらくリピーターはいないと思います。

学祭も無事終了し、3年生は引退となります(活動はしますが主体ではなくなります)。
今日からは、2年生が主体です。
後輩達、自分たちが思うことを精一杯やり抜いてください。
僕等が君達へ何を残せたかは、わからないけど、、、。
それでも、みんなとは、本当に楽しい時間を過ごすことができました。
僕にとっては地理研でよかったと心から思える2年半でした。

これからも地理学研究会をよろしくお願いいたします。

2011年10月28日金曜日

立体模型完成

立体模型が完成しました!!

長かったです。1回生から4回生までの地理研部員総動員で作業しました。

完成したての模型の写真と仕上げの作業をしている動画をアップします。



動画-1 立体模型の仕上げ作業



写真-1 完成した立体(下が北)

2011年10月16日日曜日

とある水曜日の部会の様子

sagara1020です。

部会の様子を報告します。
地理研の部会は、毎週水曜日に行われます。
最近の部会では、第二回中間報告会(夏合宿の成果報告会)と学祭関係の話し合いが主です。

この日は、学園祭の模擬店に関する事件が起きました。

過去の模擬店では、富士宮やきそば、讃岐うどんなどのご当地食材を使用していました。なので、今回も同じように和歌山県の田辺市の名産である梅やみかんを使ったおにぎりをつくるということになっていました。

しかし、おにぎりは不衛生であると保健所のほうから意見されてしまいました。

このままでは、模擬店中止などという状況になりそうなので、うちのおにぎりは衛生的だということを証明すべくみんなで意見を出し合いました。

図1 部会の様子

 図2 おにぎりの衛生面の高さを主張する部員

 図3 どうしたものかと考える部員たち

このさきどうなることやら、、、。
近況がわかり次第報告いたします。


先ほどのものとはうってかわって第二会中間報告に関する報告書の構成を決めるているときに動画1を撮影しました。部会の雰囲気がよくわかる動画です。せっかくなのでアップしておきます。

動画1 部会の様子

文責:sagara1020

2011年10月15日土曜日

タイのつづき(3)

 青垣祭まで残すところ2週間となり,H棟は活気を帯びてきました。これからが最後の火事場のクソ力を発揮できる期間で,クラブ全体としての力量が試されます。
 とか何とかいって,私は何もせずヒヨッテいるだけですが,本当のところは何もできないというのが正しく,情けない。別に死ぬほど忙しいわけでもないのですが,さすがに,春合宿以降現地を見ていないというのは致命的で,私が唯一参加可能な展示作業にも自信をもてないことが尾を引いています。お祭り前だというのにちょっとブルーな気持ちです。

さて,気を取り直してタイの紹介です。

図1.マレー半島中部の東海岸に発達する砂嘴とラグーン

前回は,マレー半島両岸の地形について紹介しましたが,いずれにしましても,マレー半島そのものはプレート運動による大きな褶曲山地であり,火山フロントではありません。プーケットからナコンシタラマート一帯には石灰岩地形が点在し,熱帯特有の赤色に風化した土壌が見られました。標高のある山の帽岩の部分は比較的しっかりとしており,山腹は風化して削られて急斜面となっていました。このような山体のシルエットはアドリア海周辺と似通っていたのですが,いかんせん,気候の違いによる植生が全く異なり,同じ石灰岩地形とは思えない景観でした。また,地質は確認できていませんが,海岸近くの平野には小さな残丘がいくつか見られました。


図2.ノイ湖近くの東海岸に見られる後背湿地と
遠方に見られる石灰岩地形の山(途中は海:南南東向き)

一方,東海岸の地形ですが,平野部は浜堤列平野です。図1から想定しますと,ソンクラーからナコンシータマラートまで,およそ150㎞におよぶ大きな浜堤でできた平野が連なっています。前回-図1のLaem Talumphuk集落の部分は成長段階の砂嘴ですが,タレーノイ国立公園から南にある大きな湖はラグーン(図2,3)であり,歴史的には,ソンクラーの部分から砂嘴の形成が始まっているように見えます。巡検では,東海岸が時代とともに南側から順に陸化してきたことをイメージしながら観察できました。その形成史については,引率していただいた海津先生をはじめとする国際プロジェクトによる研究で明らかになるはずです(ただし,私が未確認だけで発表済みかもしれません)。

図3.ノイ湖の湖岸のようす
(深さは数10㎝と浅く,沖合にも水草が浮かぶため,
船の幅は狭く長い)


図4は,以前に紹介したKing’s Projectの記念館(王様の離宮内)で見学した,この周辺のジオラマです。
ところで,砂嘴の形成については,まだ理解できていないことがあります。砂嘴の母材はどこのもので,どのように運ばれてきたのかということです。タイ湾が大陸棚であることと河川流域の地形・地質・流量・広さとの関係,そして,ケッペンの海流図()によるとタイ湾の海流は反時計まわりであるのに,なぜ南側から砂嘴が形成されたような地形ができるのか,あるいは沿岸流は反対方向であるのかなど,基本的なデータをまだ入手できていませんので今一つ思考が深まりません。(タイ語は無論のこと,英語さえチンプンカンプンな学生の限界を感じてしまうなあ。青息吐息の後に残るは,ため息のみ。)

図4.東海岸のジオラマ(写真は合成)
(浜堤列平野の地形とKing's Projectとの関係を示す)


さて,ここまで,周辺の地形について概観しましたが,この辺でようやくエビの養殖の話題に取り付けそうです。けれども,あまり長くなってもなんですので,この辺でいったん区切ります。(River

(※)「世界の気候区と海流」W.Koppen*ほか:『基本地図帳』二宮書店(2006)
    (*Koppenの「o」は上に「‥」)

2011年10月12日水曜日

立体模型の作業開始

今年も学祭のシーズンがやってまいりました。
例年同様、地理研では研究対象地域の立体模型(地形のジオラマ)を作成しています。


この模型は、地図上の等高線をなぞって、切り出し、等高線ごとに重ね合わせるという形式で作成しています。

 図1 夜間に作業する部員

動画1 作業する部員



例年通り、ぎりぎりまで作業するという状況になりそうですが、それも含めて学祭期間を楽しみたいと思います。
立体模型の進行状況もアップできたら順次アップしていきます。


~作業経過の更新~



図2 立体模型の進行状況



 文責:sagara1020

2011年10月6日木曜日

タイのつづき(2)

図1.Laem Talumphuk周辺の空中写真
 今回は,前回に少し触れた,ナコーン・シー・タマラート(Nakhon Si Thammarat)県のリームタルンプック(Laem Talumphuk)周辺(図1)でのエビの養殖について紹介します。

ナコーンシータマラートは,タイ南部にあった王国の古都で,マレーシア系のイスラーム文化の影響をうける地域の北限にあたるようです。私たちが訪れたタクシン大学でも,ヒジャブ(頭部と首回りだけを隠す)と呼ばれる衣装をまとった女学生が大勢熱心に勉強していました。


図2.マレー半島を横断する交易路
 この地域周辺は,マレー半島が細くくびれた場所(クラ地峡)の南に立地し,パタニをはじめ,海洋貿易において重要な拠点港が点在しています。とくに大航海時代において,西洋の国家権力を背に受けた海賊が出没したことからわかるように,世界的な権欲が渦巻いていた地域だったようです。ナコーンシータマラートも同様で,図2に見られますように,マレー海峡を経由せずにマレー半島を横断するルートが開設されています。前回紹介しましたKing’s Projectは,まさにそのルートとして利用されたパクパナン?(Pak Phanang)川でのプロジェクトです。
(余談ですが,アユタヤ王朝時代,チャオプラヤー川の交易を掌握していた日本人街の頭領として活躍した山田長政は,ここナコーンシータマラートの防衛のためにパタニ王国と戦い,1630年に当地で死亡しています。)






図3.マレー半島の海岸地形
 なかなかエビの養殖の紹介にたどり着きませんが,そのためには,まず地形の紹介をしておく必要があります。図3をご覧ください。とくにマレー半島の東部と西部の海岸地形の違いに注意してください。西岸はリアス式の沈水地形を示し,東岸は砂嘴を含む堆積地形を示しています。地質は異なっていますが,形状だけを採り,東西を反対にすれば,どこか日本の東北地方に似ていると思えないでしょうか(相当無理がありますが,私には最初そう見えてしまいました)。インド洋プレートが西からアンダマン海溝で沈み込み,大陸プレートのマレー半島西岸も三陸海岸と同様に滑って沈降する,とそんなストーリーです。地質帯としては四万十帯のようなものではと。一方,東海岸は,大陸プレートから見ると内陸側の大陸棚にあたり,褶曲運動はあるもののプレート運動の影響は少なくなり安定し,南シナ海の海流がタイ湾を時計回りに回転し堆積が進む。この辺はどうも東日本震災の影響による妄想かもしれませんが,では,そう考えて不具合は,というとそれも思いつきません。

 と,ここまでの内容は,エビ養殖に適したマングローブ林が発達する地形の成因について書こうとしていたのですが,寝ないといけない時間になりました。続きはまた後日にします。(River

2011年9月29日木曜日

タイ巡検のつづき

 ブログを開けますと,毎度元気そうな部員の姿が目に飛び込んできて,その数の多さに隔世の感がします。私は,訳あって(?)すでに6年目を迎えていますが,その間には,クラブの運営に危機感を抱くような時期もありました。それでも,みんなの地道な日々の活動があり,現在にいたっています。
 この間には,自分の新しい目的を目指して,あるいは,不本意ながらも新しい道を選ばなければならなかった同志もいましたが,彼らが残してくれた業績を忘れることはありません。諸先輩方を含め,彼らの業績の上に,今,私たちができることは,これまでと同様の日々の活動しかないように思います。
 
 あれっ? なんでこんな固いこと書いてしもたんやろ?
そうではなく,タイ巡検の話です。
今回は,タイの農地と住宅の,配列の形状について紹介します。


図1.バンコク近郊の水系と農地
(加筆した白線は,図中に確認できた水系)
 図1は,伝統的と思われる配列の例です。場所は空撮のため正確にはわかりませんが,バンコク西部の近郊です。蛇行する本流河川に向かって網状に支川が合流しています。一部人工的な水路も見られますが,それも自然の蛇行を示しています。図の上部(おそらく北で上流)は水浸しの状態ですが,これは,手前側の海岸側が浜堤で,上部は後背湿地になっているのかもしれません。春山成子(2009)※による,タイダルフラットと,ラグーンもしくは泥洲に分類されているところです。
 農地は,網状の水系に逆らうことなく,一見無秩序ですが自然な形で区画されているようにみえます。

図2.タイ南部の灌漑施設周辺の水系と農地
 図2は,伝統的な配列と近代的な計画農地の配列とが混在している例です(Google Earthより)。場所はタイ南部(タイ湾側)の伝統的な古都,ナコーンシータマラートの南東東30㎞ほどのところです。
 ここは近年,King Project と呼ばれる灌漑事業が行われています。これによって大規模な水田が作られています。周辺の田圃の区画と明瞭な違いがみられます。たとえば,伝統的な地域では少し短冊形で,方向も微妙に異なりますが,土地改良区では正方形に近く,方向も均一です。さらに,旧水田の広さはさまざまですが,新水田では極めて狭く同等に統一されています。
これは,水の管理をしやすくするとともに,事業後,土地を等価交換しやすいようにしたためだと思われます。
 さらに,この周辺ではホワイトタイガーの養殖が行われていまして,地形とマングローブ林の環境とエビ養殖の関係とが興味深いのですが,はここでは省略します。


図3.バンコク近郊の農地と新興住宅と水路
  図3は,バンコク近郊の代表的な農地と新興住宅の配列です(Google Earthより)。この図は,個人的にたいへん興味がそそられます。
 自然に近い河川と人工的な運河の利用の違いが見られ,運河沿いの農地はたいへん細長い形をしています。一方,新興住宅はその農地を買い取って開発されるため,同様に細長くなり,空中写真でみますと,まるで百軒長屋のような形状を呈しています。また,住宅は連続して配列しているのではなく,中に1枚の田圃を残しているようです。これはもちろん水管理や防災のためだと思いますが,図らずも(図ってかもしれませんが),景観をはじめ,住環境にすばらしいことだと思いました。
 また,ほとんどの主な運河の横には,近年整備されたと思われる幹線道路が建設されています。多くの場合,幹線道路の運河側は旧集落であり,新住宅は外側に建設されています。エリア的には道路一本離れているだけなんですが,なにぶん道幅が広く,地区共同体として共存できるのか,少し疑問を感じました。以前も運河で隔てられていたはずですが,各家庭は小舟を所有していて行き来には何の不便もなく,何より景観(この場合は固有文化・経済)が連続しているため,運河を挟んで一つの共同体だったことは当然です。私たちのような行き掛けの観光者ではよくわかりませんが,これから,バンコク郊外の集落が水路と道路をどのように利用し,どう変化していくのかを考えるうえで,一つの起点としての観察を行うことができました。

 最後に前回紹介しましたダムヌンサドゥアクの事例も取り上げたかったのですが,図は前回示しましたので省略します。今回の紹介は以上です。(River)

※.春山成子(2009)「東南アジアの自然環境の基礎」:春山成子・藤巻正己・野間晴雄編朝倉世界地理講座3東南ジア朝倉書店,451Ppp.3-11

2011年9月24日土曜日

海外巡検 in タイ


 前記事の夏合宿のようすを見まして,それに参加できなかった悔しさもあり,代わりにと言ってはなんですが,タイ巡検のようすを一部ですが報告しておきます。(今回の巡検には3名の地理研部員が参加しました。)

 海外巡検は3度目の参加でしたが,一昨年のアドリア海諸国では石灰岩地形と地中海気候を,昨年の韓国では大陸の花崗岩地形と冷帯大陸性湿潤気候を,今年はチャオプラヤー川のデルタ地形とサバナ気候を体験することができ,それぞれ刺激的な印象をうけました。

 さて,なにをテーマに報告するかですが,個人的にまとめた報告書の進捗状況から,もっとも観光的な水上マーケットをとりあげてみます。
 図1.水上マーケットのようす(1)            図2.水上マーケットのようす(2)

 図1,2は,ダムヌンサドゥアクという,バンコクからおよそ80㎞ほどのところにある郡?にある水上マーケットのようすです。
 
図3.ダムヌンサドゥアクの位置


 図3のように,ダムヌンサドゥアクは,メークロン川河口から20㎞ほど内陸ですが,標高は海抜6~7mで,町の中を網状に水路がめぐらされています(図4)。

メインとなるダムヌンサドゥアク運河は,バンコクから当地域まで一直線に続く幹線水路で,これは,ラーマ4世の時代に,バンコク湾沿岸の灌漑を目的に掘られたようです(1866-1872年)。もちろん水運にも利用されていたはずです。






図4.ダムヌンサドゥアクの水路網

 その後,各地域ごとに支川網が掘られたと考えられますが,現在,ダムヌンサドゥアクで伝統的な水上マーケットを見ることができます。これは観光目的でとくに整備されたものですが,なぜ当地がとくに選ばれたのかが疑問として残ります。推定ですが,ダムヌンサドゥアクは,バンコクからメークロン川までの運河の終(起)点としての機能があり,とくに水路網が発達していたからではないかと考えています。

図5.交通手段としての水運

 現在,水路の利用が減少していることはもちろんですが,観光目的以外に,まだ生活の一部として利用されています。たとえば,本来の目的であるバナナ,ヤシ類,マンゴーなどの灌漑水路としてのほかに,水上マーケットでの主婦の買い物(図5)や,ココヤシの出荷(図6),漁労(図7),洗い物用の中水としての利用などが観察できました。
 しかし,Google Earthで見ると,やはり道路網が整備されてきていることが明らかで,家が水路に面していても,裏手には車道がひかれていることが多いようです。まもなく,人々の生活から水路は離れていくと考えられます。

図6.ココヤシの集積・荷出し場

 周辺の標高は海抜数mあるとしても,運河の水面からはゼロメートル地帯に近いため,運河の自然環境の変化が直接周辺の土壌環境に影響を与えることが懸念され,人々の目が水路から少しでも離れることが心配です。
 まだまだ先の話のようでも,私たちの国がたどってきた水環境の歴史変化もあっという間のできごとでしたので,気になりました。
 近年の観光には,そのような変化をチェックする役割も期待されていると思います。大切に育ててほしいと思いました。

図7.水路での漁労のようす

 ダムヌンサドゥアクは,水上マーケットを素材にした地形,地質,土壌,気候,植生,農業などに関連する地理的テーマが考えられ,興味の尽きない一級の観光地でした。
                      (River)



2011年9月19日月曜日

夏合宿の終了と後期の授業の開始

sagara1020です。

2011年8月9日から12日までの3泊4日で夏合宿に行ってきました。
合宿地は、春合宿と同様の和歌山県田辺市です。
地理研の合宿では例年、テーマごとに班を決め個人、またはグループで調査を行います。
今年は、海岸班、山地班、市街地班の3構成です。
海岸班は、港や防災について調査。
山地班は、耕作放棄地、熊野古道、高尾山などについて調査。
市街地班は、城下町、鉄道、ニュータウンについて調査。

このようにわけ田辺市を調査しました。


田辺市の概要については、以下のサイトをご覧ください。
http://www.city.tanabe.lg.jp/subindex/outline.html

 3泊4日すべてが調査というわけではなく、1日目はレクレーションをかねてはじめて田辺市を訪れる1回生のために田辺市観光をしました。

訪れた場所は以前このブログで紹介した。天神崎、扇ケ浜、闘鶏神社です。
闘鶏神社では、神官をされている方が奈良大学のOBさんで丁寧に説明をしていただきました。
まさか、奈良大OBと出会うとは、、、、。
地理研の合宿地が田辺市に決まったの神の仕業かもしれないなと思いました。

闘鶏神社で話を聞く部員たち

また、地理研の先輩達も差し入れにきてくださいました。
良き先輩達に後輩一同は、感謝の気持ちでいっぱいです。

このあと、扇が浜、天神崎とまわり、子どものようにはしゃいだあと、ホテルへと帰り休みました。
翌日からは、テーマごとに個人、グループ調査を最終日まで行い奈良へと帰りました。

 なにかを見る部員、T君

 天神崎ではしゃぐ部員達の中でもくもくと調査する部員、J君

はしゃぐ3回生

ひかえめな2回生

1回生とその後ろにいる人

 目的地に下から行く部員と上から行く部員


  はしゃぐ部員達 




田辺市役所をはじめとして、今回の合宿では様々な方のお世話になりました。

田辺市の方々は、明るい方が多く。ヒアリングにも丁寧に応えていただきました。
本当に感謝しております。



奈良大学では、後期がはじまりました。学祭も近いです。学術サークルとして結果を残せる数少ない機会ですのでしっかりと結果を残したいです。
後期も気を抜かないようにがんばります。

2011年8月7日日曜日

書ききれなかった前期の主な活動のまとめ

7月はあまりブログの更新ができませんでした…
合宿も近いことだし、書ききれなかった活動を簡単にまとめていきたいと思います。

6/26 関地連巡検!

われわれ奈良大学地理学研究会も所属する「関西学生地理学連合」の年に一回の団体で行く巡検です。
ことしは京都大学さん主催で、京田辺市のニュータウン開発と街づくりを主に発表しながら巡検していきました。


午前と午後のフィールドワークの間に巡検に関する座学の時間を設けることで、より巡検が具体性をもったものになりました。
結構な距離を歩いたので、GPSロガーを持って行程を再確認できたらもっとおもしろかったりとか思ったり。
交流会も楽しかったです。こういう機会増えるといいのになぁ


7/17 オープン巡検!

地理研が所属する奈良大学文化会のみなさんにむけた、日頃の活動の紹介のような行事です。こちらも年に一回のイベントです。
ことしは大和郡山市を舞台に、「郡山城の城下町」「大和郡山市のため池」をテーマに発表、巡検を行いました。


写真はため池班

筆者はため池班を担当していたのですが、欲張って広範囲を歩かせるルート(城下町の外堀跡~平城京羅城門跡~稗田環濠集落~シャープ工場~広大寺池)を取ってしまった結果、こちらの説明はしやすかった分、参加者はへとへとになっているという大変な状態になってしまいました。

浮足立って参加者のペースを考えていませんでした。今後の反省点の一つです。


明後日からは夏合宿in和歌山県田辺市!
環境が許せば(がんばれWiMAX…!)現地からの更新をしたいと思います。
ご期待くださいませ。

筆者:George

2011年7月12日火曜日

「大阪難波における南海地震の津波被害について」へのコメント

何回トライしても標記の投稿記事へのコメントができませんでしたので,別稿で投稿します。

 確かに,喉元を過ぎれば熱さもなんとかというように,災害の伝承は忘れられがちですが,同じ間違いを繰り返しながらも,伝わることもあるようです。河田(2010)によりますと,安政南海地震の教訓が宝永地震のときに役立った事例があったそうですし,Sagaraさんの文中で紹介された記念碑も毎年地蔵盆に合わせて墨入れが行われているようです。私たちにできることは限られますが,こと地震や津波に限らず,土地に刻まれた記憶を地誌にまとめて後世に伝えることはできます。田辺市でも何を伝えたいのか,伝えるべきなのかに注視して頑張ろうと思います。

 津波発生時の地下河川の問題は同感です。地下河川は隔壁で隔てることができるようになっているはずですが,これまでの河川洪水(たとえば2009年?の金沢・手取川)のように運営上の拙さから被害が拡大してしまう可能性は払拭できません。本来出水するはずのない地点から想定外?の出水が発生しては防御のしようもありません。

 また,大阪の地下河川は本当に河川なのかという疑問も感じます。以前,南西諸島・宮古島の地下ダムを調査したとき,地下ダムの論文を検索していますと「大阪の地下ダム」というタイトルを見つけて驚いた記憶があります。要は,大阪の地下河川の本来の目的は,淀川や大和川の洪水時の遊水地づくりであるらしく,必ずしも河川とはいえない要素を含んでいるということです。このような地下河川が津波の時にどのような働きをするのか興味が湧くところです。

 あれやこれや,やりたいことは山なれど,落第生の修論提出まで後10日,我慢の一字でやり過ごします。  River

 河田惠昭,2010,『津波災害』岩波新書,191P,pp.46-47

2011年7月7日木曜日

大阪難波の南海地震(安政元年)における津波被害について


Sagara1020です。
大阪難波でフィールドワークをしてきたので報告します。

はじめに

 2011年3月11日、マグニチュード9.3、最大震度8の大規模な地震が発生し、それに伴う大津波が三陸海岸沿岸の町々を襲った。死者、行方不明者は約3万人と阪神淡路大震災を大きく上回っている。
 私は、震災後50日目に被災地域である宮城県北部の調査を3日間行った。実際に被災地の凄惨な現状を目の当たりにし、自然の恐ろしさを感じることとなった。地震やそれに伴う諸現象は今後日本からなくなることは、日本列島の形成史から考えてありえない。我々がときおり起こる猛烈な自然現象とうまく付き合っていくためには、過去の地震や津波などの被害を調べ現状できる範囲での対策が必要である。
 今回は、身近な地域である、大阪難波における安政元年の南海地震の津波被害を調査した。その結果から、大阪難波でとられている対策が十分であるかを検討したいと思う。


南海地震と安政元年の津波被害

 南海地震は、南海道地域で100年から150年の周期で発生する地震である。過去最近のものは、1946年、1854年(安政元年)、1707年(宝永4年)に発生しており、いずれも紀伊、四国沿岸各地に津波被害をもたらしている。なかでも、安政元年と宝永4年の両津波の被害は大きく1946年のものを上まわっている。今回は、安政元年の津波被害について報告する。
安政元年11月4日、安政東海地震(最大震度7、マグニュチュード8.4)が発生した。震源を静岡県沖とするこの地震は、大阪でも震度5の揺れがおきたとされている。その翌日(安政元年11月5日)、和歌山県沖で安政南海地震(最大震度6~7、 マグニュチュード8.4 )が発生した。この地震により発生した津波は、紀伊、四国沿岸、大阪湾岸などを中心に甚大な被害をもたらした。「大津浪末代噺種」によるとこの津波による大坂における死者は6000人余り(資料によってまちまちだが、多かったもので死者6000人余り)とされている。この被害原因は、大坂の町割と地震の特徴にある。火災が頻発する大坂での一番安全な避難場所は、掘割であった。大坂の町割は道が狭く避難しにくい。安政南海地震の際も船に家財道具をつめ掘割へと避難した。しかし、安政南海地震はプレート型の地震であるため大規模な津波を生じ、大坂の町を襲った。安政南海地震で被害が大規模にみられたのは、最も危険な地域となった掘割である。そこに避難した人々が多かったからである。また、津波が大坂に到達するまでに、1時間50分ほどあったことから、避難する人々の気が緩んだのも事実であろう。
 図1は、大坂難波周辺における津波被害を示した「大坂大津浪図」である。図2、3がそれを書き写し見やすくしたものである(長尾武 水都大坂を襲った津波より引用)。この図3の注意点は、北と南が逆さになっていることである。この図をみてわかることは、水入り(浸水)になっているのは道頓堀川沿いの南側現在の浪速区幸町付近と木津川河口付近である。

 

図1 大坂大津浪図( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )

図2 大坂大津浪図加筆版( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )

図3 大坂大津浪図加筆版( 長尾武 水都大坂を襲った津波より引用 )


大阪難波におけるフィールドワーク

大阪市浪速区大正橋のたもとに安政大津波を記念した石碑(図5)がある。この石碑は、地震の翌年である1855年に建てられたもので当時の記録が残されている。図6がその全文を現代文に訳したものである。この文には、1707年の地震の教訓がいかされていないこと、地震が起きたら火災に十分気をつけなければならないこと、地震被害を記録することの大切さが刻まれている。碑文にある破壊された橋や図2、3より津波の浸水区域を表現したかったが、河川改修や干拓により土地利用が大幅に過去と現代では異なるため断念した。 また、石碑のある周囲には記念碑を残していくためにタバコの吸殻などのゴミを捨てずに清潔にしてほしいという看板があり、古人の思いが現代までに息づいていることを実感した。
 実際は、ある地域にしぼりフィールドワークを行ったのだが批判の面が強く、地域住民にとってマイナスのイメージをあたえるため割愛する。 




図4 石碑の位置


図5 大坂大地震両川口記


 図6  大坂大地震両川口記の訳文


大阪難波における津波被害対策の現状

 大阪に津波が襲来した場合、地下鉄や地下街などの地下施設を除く人的被害は少ないと思う。その理由として、鉄筋コンクリートの3階建て(大阪市が予想する津波高は2.9mであるため)以上の建物がたくさんある。2011年に東北で発生した津波から考えても津波による鉄筋コンクリート建物の倒壊の危険は少ないと思われる。それに加え、
避難時間が1時間50分あれば避難も難しくない。しかし、地震は別のものとして考えるべきである。それは、地震が起きて建物が倒壊してしまっては避難場所を失うことになるからである。また、大阪で特に注目すべき問題は、地下鉄、地下街などの地下施設である。地震によって地下施設が破壊され死傷者が出た場合、1時間50分では避難できない。時間帯によっては、死傷者がでなくても避難が難しい。また、地下河川からの逆流なども指摘すべき問題である。こういった災害の時にはゆっくりとおちついて避難することが重要である。避難訓練、災害教育に力を入れた教育が必要とされている。
 大阪市の津波対策として河川における堤防の設置を行っている。木津川の堤防を例にあげて紹介する。OP+2.m(逆望平均満潮位)に予想される津波高2.mを加えた5mが木津川の堤防の高さである。津波に対して、ぎりぎりの高さに堤防がおかれている。これには大きな問題点が2つある。まず、河川合流部における相乗効果による津波高の上昇である。もう一つは、津波が堤防を破壊した場合である。2011年に東北でおきた津波では、堤防の破壊が目立った。南海地震で発生する津波も堤防を破壊し市街地に水が流入する確率が高い。その際には、0m地帯に被害が集中する。m地帯は、揺れやすく、液状化しやすく、浸水しやすいなど災害にはめっぽう弱いところである。また、地震によりこの0mはさらに拡大すると考えられるため、なんらかの対策が必要となる。
 以上のことより大阪市における災害対策が充分でないことが指摘できる。しかしながら、堤防の強化やかさ上げすることには限界がある。そのため、避難訓練や災害教育に力をいれたり、避難経路、避難場所の充実をするべきである。


まとめ

 安政元年11月5日に発生した安政の大津波により大坂は甚大な被害をうけた。この津波の記録を残した碑文や地図によりその被害状況が明かになった。こういった災害を知り、対策をねることで次の被害を軽減することができる。しかしながら、社会形態、生活スタイル、構造物などに当時の状況は、大きく変わっている。特に地下施設の充実があげられる。地下施設は、便利だが災害の時は一気に危険になるのである。また、津波を防ぐための堤防も津波予想高ぎりぎりの高さである。その上、地下河川の逆流、堤防の破壊、相乗効果による津波高の上昇など考慮しなくてはいけない問題が多い。これらの問題は、解決に時間や費用が莫大にかかる。地震や津波がいつおこってもおかしくない状況にあるのであれば、早急に行わなければいけないのは避難訓練を中心とした災害教育である。


参考文献

長尾武(2006)「水都大坂を襲った津波 石碑は次の南海地震を警告している」 タイヨウ社 169頁 
 

 

 


 

 









2011年6月25日土曜日

関地連巡検にむけて

今回は,個人的事情で関地連の巡検に参加できず残念です。とくに,今回の巡検地・木津川南部流域は,奈良から見ますと隣町であるにもかかわらず私にとっては何故か疎く,気にかかっている地域ですので。

常日頃,地理は空間の連続性と関係が重要であると他人には強調しているくせに,ホームグラウンド・平城丘陵の北側をちっとも調査していません。大和川水系との河川争奪も授業では習いますが調査したことはありません。
木津川は古代からも奈良盆地とは切っても切れない関係にありましたし,現在も奈良市の水需要のほとんどは木津川からのものです。参加されるメンバーは,これまで教わったすべての自然・歴史・文化の知識を動員して観察してきてください。そして報告してください。

 今回の巡検地とは異なると思いますが,以前に訪れた田辺市周辺の写真を貼り付けておきます。
 図1は東側山麓のようすで,基本的な地質は大阪層群と真砂土のようです。比較的はっきりとした谷が切れており,その成因は花崗岩の風化の違いによるものとされています。また,図でははっきりとしませんが数段の河川段丘があります。(撮影地点がすでに段丘の上にある)。

                図1.東側山麓の地形と集落のようす

図2はJR奈良線の上を跨ぐ水道橋ですが,農業用水用らしく撮影日の4月上旬では流れていませんでした。JR線の走っている東西位置を想像しながら見てください。
                図2.水道橋(玉水駅南部)

 図3は,木津川に流入する支川です。河川改修されているため河床は自然のままではありませんが,それでも流況は想像できそうです。ところが,時として暴れることのあるところが,不謹慎ですが地理的に興味深いところです。
                図3.井手町の玉川

 図4は,花見をしながら川遊びをする子供たちのようすです。なかなかいい雰囲気でしょう。
                図4.玉川河川敷のようす

 図5は昭和28年に発生した水害の記念碑です。重さは6トンもあるらしい。水の物理的に面白い点は,流れの推力のほかに持ち上げる力,浮力にありますが,それにしても,こんな大きな岩が流れてきてはたまったものではない。
 低地の沖積帯では大洪水,扇状地では土石流,山では土砂崩れといった自然災害が,私たちのごく身近なところでも発生するということがよくわかる記念碑です。(しかし,時間雨量が50㎜でそんな状況になるのは人災の要素もあるように思いますが。)           River   
                 図5.JR玉水駅のホームにある水害記念碑


               図6.井手町での木津川流域の横断景観(西から東方面をみる)